他称ツイッタードラマ

「素直になれなくて」(フジテレビ)


ツイッタードラマということで放送前から一部で話題になっていた、「素直になれなくて」。ところが蓋を開けてみると、ツイッターメーリングリストmixi、出会い系でもすぐに代入できるような脚本であったために、ツイッターユーザーを中心に批判にさらされています。これに輪をかけた、火に油を注いだのが同作の脚本家、北川悦吏子さんのツイッター上の呟き。炎上マーケティングと揶揄されるほどに芳しくなかったドラマの評判をさらに悪くしてしまう結果になってしまいました。

一方でこういった批判、ツイッタードラマと言う割りにツイッターが全く活かされていないと言う批判に対しては、「別にツイッターのドラマではないのだから、あくまで一要素にそこまで批判すべきではない」という反論があげられました。実際、脚本の北川さんも後日ツイッター上で同様の反論を展開しています。加えて言うとここで北川さんは”ツイッタードラマ”というのは営業サイドの判断で脚本家の本意ではないとします。確かにその通りかもしれません。

ツイッター社がツイッターを普及させるために製作したドラマではないのでツイッターは所詮、脚本の中のツールでしかありません。進研ゼミのマンガではないのですから、ツイッターが話の中心になりようにもありません。しかし一方で視聴者としてこのドラマを観ると、ツイッターが全くといって良いほどドラマの中で機能していないことが逆に気になります。一要素でしか過ぎないと言っても一要素ではあるわけです。そこには必然が無ければ、ドラマの中でいびつな存在感を生み出してしまいます。

まさにこのドラマがそうでした。劇中、登場人物たちは会話の中でこれでもかと言うほど、「ツイッター」という単語を日常会話で交わします。「ツイッター上では…」、「この前ツイッターで…」と。「リツイート」という言葉まで飛び交います。「メール」のような一般動詞、名詞として「ツイッター」と言う単語が頻発されています。けれどもその「ツイッター」は登場人物の内なる声で語られたり、吹き出し的に表現されるばかりでその内実はドラマには存在しません。単語だけなのです。

一要素といいつつも、一要素として提示されているのに一要素にすらなりきれていない。これが一番の問題だと思います。一要素でしかないのに内実が伴っておらず、脚本上のアクセサリーにしかなっていません。別に脚本的なアクセサリーはこの作品に限ったことではありません。例えば「Mr.BRAIN」の一要素である”脳科学”もお世辞にも機能しているとはいえませんでした。ここで問題になるのが脳科学ツイッターの一般性です。脳科学ツイッターほど一般的でないため可笑しかろうがみなスルーしました。

ところが、ツイッターは違います。現在日本では500万人近いユーザーがツイッターを利用していると言われています。数量化は出来ませんが脳科学について何かしらの考えを持っている人よりも、はるかに多くの人たちがツイッターに対して何らかの考えを抱いていることは想像に難くありません。そんな人たちが何かしらの考えを持っているものを一要素にもなっていない、アクセサリー的な使い方をされたらどうなるのか。いわんやネットと親和性が高いモノであったら。



と言うのは傍論で本筋はドラマとしてみて面白くないことです。ちょっと前の韓国ドラマが少女マンガの焼き直しのようなベタなソープオペラだったり、援助交際、レイプ、妊娠、不治の病、恋人の死というキーワードで構成されうるような携帯小説ドラマ的なありえないくらいベタベタの内容だったからです。主人公は処女と刺青とEDとメンヘラと韓国人。そして彼らにはパワハラやセクハラ、リストカットに妊娠、堕胎、万引き、ドラッグとこれでもかと言うほどにさまざまな要素が並びます。しかもありえないくらい描写がステレオタイプです。

パーティーなどで使うクラッカーに人を驚かすこと以外に用途が無いように、このドラマの上記に挙げた要素も第1話を見る限り視聴者の注意を引く程度にしか機能が無いように感じられるからです。現代社会のさまざまな人々のさまざまな苦悩を描写したいということでもあるのかも知れませんが、昨今ニュースに頻出する児童虐待を扱った日本テレビ「Mother」児童虐待の描写と比べてしまうとそこの意味性や重さはあまり感じられません。「Mother」と違いこのドラマで描かれる要素はツイッターと同じくらいお飾り的です。

「Mother」日本テレビ

面白い科白はいくつもありましたが全体で見ればツイッターを初めとして一要素にもなりえない中途半端な要素に満たない要素が集積して、非常に気持ちの悪いドラマに成り果てています。しかもこれから家庭内暴力や恐喝、不倫などが出てくる気配濃厚です。これらの描写はツイッター以上にもっと酷そうですが、ツイッターよりも脳科学に近く批判は少ないでしょう。ただ明確に分からなくても漠然に浅薄さは伝わってくる。かといってパワーも無い。だからツイッター以上にそれらの描写に説得力が感じられなくなっています。

別に取材をしない脚本が悪い脚本だとは一概に言えません。取材をした悪い脚本もあるでしょうし、反対に取材をしなくても良い脚本はごまんとあるはずです。面白い嘘もあれば、つまらない真実もあります。でも「素直になれなくて」に限って言えば、取材をしない脚本に説得力が無く、問題の上辺だけをなぞっているように感じられて上記の問題の不快さだけが残る印象です。おそらくこれらもツイッターと同じく恋愛を描くためだけの要素、クラッカーでしかないように思います。だから恋愛以上を期待すると楽しめないドラマだと思います。


結論として「素直になれなくて」はツイッタードラマにも何にもなりきれない単なる恋愛ドラマだということです。実際に上野樹里瑛太の恋愛部分だけを見れば、科白も女性脚本家らしく切れがあり、面白く恋愛モノとして楽しく観られると思います。要は装飾が邪魔すぎるのです。このドラマを作る人たちにとってツイッター東方神起パワハラもセクハラも単なる装飾に過ぎないのでしょう。